2012年1月26日木曜日

《番外編》入院を控えて

「なるべく当たりの確率が高い行動をとる。これしかない。
熟慮ののちに選んだ対策はすべて正しい。もし外れても納得できる。
熟慮せずに回りに流されて選んだ対策は、もしそれが外れたら後悔してもしきれない。」


「納得して死ぬために勉強する。」

これは放射能に関して早川さんがおっしゃったことですが、
真剣に命について考えているからこその発言だと思います。

そしてこのことは、放射能に限らず人生において多くのことに当てはまるのではないでしょうか。

うちの妻は昨年妊娠中に大きな病気が見つかりました。

どんなに簡単だと言われる手術にも少なからずリスクがあるように、すべての治療法にも少なからずリスクがあります。
また、どんな薬にもやはり副反応の可能性はあります。
当然治療しないという治療法、経過観察にしても然り。現状維持、もしくは悪化という可能性は少なからずあります。

だから熟慮します。
勉強します。
取材します。

しかも当事者は命がけで死ぬ気で調べ、考えます。
自分の今の症状とこれからのこと、そして何より命と向き合って考えます。

これが当事者と、当事者以外の人とで大きく異なる点です。

自分のことか、他人のことか。
当事者以外の人がどれだけ学んだつもりになっても、そこには大きく欠けるものがあります。
やはり第三者にとってはどうしても他人事ですから、本当に当事者の立場になって考え、判断する事はできません。
どれだけ真剣に考えても、第三者は第三者にしかなりえないのです。

当事者が熟慮し、勉強し、取材し選択した治療方法はすべて正しいと言えます。
回りに流され、また回りの雑音によって、自分が正しいと思った治療法以外の治療法を選び何かあったら、後悔してもしきれません。
逆に自分が選んだ治療法であれば、その後のリハビリや後遺症にも、納得して前向きに取り組めます。
さらにいえば、何かあっても納得することができるのです。

100%これをすれば何のリスクも無く必ず治る、という方法が無いのであれば、
熟慮し、勉強し、取材し選択した治療方法はすべて正しいのです。
本人が決断した治療方法こそが最も正しい治療方法だと言えるのです。

逆に言えば、100%これをすれば何のリスクも無く必ず治る、という方法が無いのであれば、
本人が決断した治療方法以外は全て正しいとは言えないのかもしれません。
何かが起きた時に、だれのせいにもできないのですから。

家族は当事者として共に学び、熟慮し、本人が決断した治療方法を全面的に理解し、支え、成功する可能性が出来る限り100%に近付くように全力を尽くします。

つい数日前にも、経過観察の末、わずか数カ月の間に腫瘍が大きく成長した人の闘病記を読ませて頂きました。その方は21歳から15年にもわたる闘病生活の末、最終的に手術に成功された方です。
また、大変な後遺症から8年を経て回復され、術後約20年を迎える方の闘病記も読ませて頂きました。
その他、無事に手術を終え、順調に術後経過している方の記録も拝見致しました。
10万人に1人とは信じられないほど、同じ病気と闘い、そして乗り越えられている方が居ます。

遠いアメリカの地から、アドバイスをくださった先輩もいらっしゃいました。
つい先日手術を終え、いろいろと教えてくれた方もいらっしゃいます。

そして親身になり、それこそ命がけで病期と対峙してくれる主治医の方、担当医の方、
また、遠方より無償にてアドバイスをくださったドクターなどなど。

やはり、どれだけ他人がまるで知識を得ているかのように口を動かしても、
それは当事者・経験者・専門家の命がけの熟慮には遠く足元にも及びません。

こういう時こそ、家族が家族としての力を発揮するときです。

後数日で妻は手術を迎えます。

妻には治療に専念して欲しい。
余計な心配をしなくてもすむように、息子は命がけで守ります。
またしっかりと前だけを向けるように、雑音はすべてシャットアウトします。

そして無事に帰ってくる事を強く信じて、全力でサポートをしていきます。

妻の為、息子の為、家族の為、そしてサポートしてくださる全ての方々の為にも。
何より、自分たちが納得して生きていくために。




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